江戸期、益田(現在の益田地区、通称「旧益田」)の堀川地区で祇園まつりが始まった。
城下町から商工都市に身替りした益田では祇園まつりをもって町を繁栄させようと
大谷村(現在の大谷町野坂)祇園神社(現在の八坂神社 当時は野坂祇園山にあった)の御旅所を
堀川の川土手に造り、6月の祭礼の日、益田から代表者を大谷村に送って神輿(みこし)を御旅所に迎えた。
益田では町を挙げて山車を出して盛大に営んだ。また、6月からは暑さで商売がしにくい季節、いわゆる
夏枯れになる為、客寄せ席の意味もあったとされている。
明治維新の石州の戦いが行われた日が祇園まつりの日だったと言う歴史もある。
しかし、昭和18年(1943)の大洪水で御旅所も山車も流失したので途絶えてしまった。
戦後、昭和22年頃(1947)に復活したと言われている。
昭和18年(1943)の大洪水や人口減少などの影響により、大谷村祇園神社から神輿を迎えることが
出来なくなり、同じ宮司であった益田の住吉神社から神輿を迎える事となった。
昭和33年頃(1958)までは城下町の名残で芸者さん方がいたので、トラックの荷台に乗せて三味線を弾きながら町を練り歩いた。
本来は山車に乗るのだが、昭和18年(1943)の大洪水で流失した為、トラックで代用した。
その後は、昭和58年(1983)の大洪水による中止が1度あったが、現在に至るまで続いている。
※参考資料:『ふるさとの想い出 「79」写真集 明治大正昭和 益田』 矢富厳夫編 発行所:国書刊行会
※祇園の「祇」は「示」+「氏」と書く。「祗」は誤記。「祇園」はフォトンの影響により正しく表示されないことがあります。
あとがき
古い書籍や新聞などの資料以外に、当時(昭和20年から30年ごろ)の事をご存知の高齢者の方へお話を聞きました。しかしなから約60年も昔の事なので、記憶があやふやで正確性の欠けるものが多く、年数を特定できないものや内容の実証が出来ないものもあります。
当時のことをご存知の方や、それを記した書籍(書物)などをお持ちの方がおられましたら是非ご連絡をお願いします。